言葉は,パワーと可能性を持つ。

去る照屋てるりん氏が使ったチャンプルー語、“やぶれたー”には、複数の意味が絡み込んでいて、標準語ではないが意味は的確に伝わる。そこには、破られた人の心とその人が破った手紙が重なるのもあり、そして日本語と英語の関係性も含めている。パンドラの箱のように笑いは、色んな物を醸し出す。時には、とんでもない物も。いずれにせよ、多様性を働かせる重みのある言葉。それがダブル語、ダジャレ、ちゃんぷるー語のパワーである。

ぶーてん、てるりん、お笑いポーポー、お笑い米軍基地が演じる沖縄のお笑いは、ユーモアとYou Moreが絡んでいる。色んなジャンルのお笑いの中でユーモアとYou Moreの温度差は、様々である。特に歴史をテーマにする時に感じる温度差。

三年前に無くなられた 歴史、社会科学、人類学の学者として尊敬されている有名な学者、Michel-Rolph Trouillotは、歴史と力の関係性をこういう。“事実とは、起こった事と、起こった事と語られているのがある。”起こった事実と語られた事実の間には、語られていない事実が潜む。氏は、その間に複数な可能性があることだと教えている。では、歴史は、誰が何を何処でどういう風に語るのか?ここで、「言う、言わん,行く」と三つの言葉を連想して考えてみました。 

歴史は、語られる事と語られていない事がある。起こったことだから、怒こらなくても良い。

「昔の事だから忘れなさい」と言うフレーズがアメリカでも沖縄でも聞く。昔を引きずっているのと、語りたいのとは違うモチベーションがあるのではないか。昔の思い出を大切にしたい、昔の失敗は二度としたくないとか、昔の彼氏は永遠に憎みたい(嘘サー!)とか, 昔に対しての態度・気持ち・経験は、人様々。だが、歴史にも語れて良いのと都合が悪いのがある。例えば、語られていない歴史を語る時に、他人が「昔の事だから。。。」と言ウパターンとは何かを追求してもしかしたらその他人の昔に恐れがあるかもしれない。同時に語りたい当事者にも恐れがあるかもしれない。個人はでうであれ、当事者が語る事を批判するのはどうだろうとおもう。例えば、慰安婦の事になると、それは昔の事、あるいは、無かった事と当事者ではない人が決めつける時の仕草が冷たいように思う。そういうパターンは、世の中に沢山ある。でもドイツのようにどんなに悲劇的な歴史であり,今現在語ることにより、言葉の言う,言わんことが明らかになる。其の空間(語る・聴く)に行く可能性がある。行くという事は、行動である。そこでお互いに分かち合うとか、パワーを得るとか、色んなエピソードがパンドラの箱から出て来るとか,様々な可能性が待っているのではないかと思う。沖縄戦は、今70年、コザ暴動は、45年目であるなか、語られていない歴史は、今なお語り続けている。まして、戦争を経験した人は未だに生きている。その命を大事にしたい。と同時に語られて良いのと都合が悪い歴史が分裂する場合もある。 そこが詰まる所。あの「昔の事だから。。。」のフレーズが引きずる暗黙の条件が作り出すボーダー。その固まり、誤り、あるいは固定概念を動かすのが You Moreです。 未知を閉ざすではなく、道を開く。「言う,言わん,行く」の働き、語り, 意味合いは、多様性と平等性を活かす歴史とパワーの交差点。そこが私の通るクロスロード。チカーノ(メキシコ系アメリカ人)の哲学者、グロリア・アンザオドゥアのボーダーランズ論による「私の背中が橋になる」と言うフレーズは、今まで渡れなかった人たちの為に作られた橋。彼女は、メキシコとアメリカのボーダーランドからグローバル的に考えている。私が語るクロスロードも照屋・コザ・沖縄を中心にしているが、橋は何処でも立てられる、誰もが渡れる、世界に繋げられる。国、人、言葉、文化等が違っていても、共通点は同じ。沖縄語で言うと、ゆいまーる。

“やぶれたー”の 言葉は、このCDに入っています。Omagatoki Co., LTD 1996